『プラントに行こうと思う』
キラがそう言ったとき、彼は何も言わずただ強く抱きしめてくれた。……それが、嬉しかった。
* *
ばたばたと自室へ戻ると、キラは洗面所に備え付けてあるシャワーから水を出して、そこへ頭を突き出した。温度調節も何もしていない、ただの冷たい水。
耳元で水の弾ける音がする。きつく目を閉じ、思考を空っぽにして――そのままじっと脳が冷えてゆくのを待って。
「…………」
ゆっくりと、キラは顔を上げた。
洗面台の縁に手をつき、鏡に映る濡れた顔を見つめる。そこに映っていたのは、数分前とは違うすっきりとした自分の顔だった。
(……よし、大丈夫)
ふうっと息を吐き、棚からタオルを取り出す。足早に洗面所から抜け出して、水滴の残る髪をタオルで拭きながら、椅子に放ってあった上着を取った。まだ馴染まないその質感に目を細め、タオルをテーブルに置くとゆっくり右、左と腕を通す。
髪を手櫛で数回かきあげ、自然乾燥でいいだろうとベルトを締めながらその場から踵を返し、扉の開閉ボタンを押す、と――。
「あ」
赤い瞳が目の前にあって驚いた。
「あ、じゃない。いつまで待たせるつもりだよ」
目の前の壁にもたれていたシンが憮然とそう言う。
「ごめん。別に、先に行っててくれてよかったのに」
そういえば、待ってるからなと部屋に入る前に言われたかもしれない。あのときはとにかく早く頭を冷やしたくて、ああとかうんとか、……確かに肯定を返した気がする。
「キラを一人にしたら俺が怒られる」
「誰に」
「……決まってんだろ」
キラの問いに彼は眉をひそめた。分かりきったことを問うなと言いたそうな顔だ。
「うん……ごめん。ありがとう、シン」
今キラが今纏っているのは、着慣れたオーブの青い軍服ではなく、ザフトの白い軍服だった。
戦いが終わった後、キラはアスランとシンとオーブでしばらく過ごした。その間にプラントもオーブも、世界全てが目まぐるしく変化し、穏やかな生活を送っている自分がまるで絵空事のように感じられていた。
あのときと同じだ、と思ったのだ。戦いから逃げて、変わる情勢を知りたくなくて、孤島の幸せな場所にとどまっていたあのときと。
だから今度は動きたいと思った。知りたいと思った。……すべてを。
「だいたい、いきなりザフトで白服ってのが間違ってる」
キラの横を歩くシンは先程からふてくされたままだ。ちらりとその横顔を窺い、ふくらんでいるように見えるその頬をつつきたい衝動に駆られる。だがさすがに実行するのはやめておいた。これ以上怒らせてもいいことは何もない。
「だから奴らがキラを目の敵にするんだ」
「でも……たとえ僕が緑だとしても、黒だとしても、見る目は変わらないと思うよ」
「そりゃそうだけど! って何で俺ばっか怒ってんだよ!」
「それは、シンが怒りっぽいから」
「キラが怒らなさ過ぎる!」
イライラとシンが足を踏み鳴らした。
「怒っても仕方ないじゃない。怒ったって何も変わらないでしょ。……だから、そういうのも、これから徐々に変える。自分の力で」
静かに返した言葉に、そっぽを向いたまま歩いていたシンがやっとキラを見た。
「……俺、たまにキラのそういうとこ、おかしいんじゃないかって思う」
「なんで?」
「考え方が前向きすぎる」
「いいことだと思うけどな、前向き」
「そうだけどさ……。あああ……俺、あの人の苦労がだんだんわかってきた……」
何故かげんなりとシンがそう呟いて、額に手を置くとこれ見よがしに盛大な溜息をついた。
シンが言う『あの人』と似た仕草に少し笑って、キラはそっと瞳を伏せる。
こうすると決めたときから、色々なことは覚悟の上だった。キラのザフト入りは評議会に出入りする高官たちが決めたものだったし、白服はラクスの一存で決まったようなものだ。もちろんそれはキラの功績と実力、そしてこれからの立場を考えて上層部が納得した上でのものだったけれど、誰もが皆それに納得するわけではない。
だから、先程のようにそれを快く思わない者たちがいても仕方ないのだ。
『いい気になるなよ……!』
キラより年上の、緑の兵士だった。
何がどうして、どんなきっかけで口論になったのだかは覚えていない。当たり前のことを返したら相手が激昂した、としか。
「あ、キラ、あっち」
考えに沈んで、自然と足並みが亀のようになってしまったキラを引っ張るようにしながら、シンが先へと進んでいく。昼食の時間だからと連れてこられた食堂だったが、あまり食欲はなかった。
だが、シンが目指している先に見知った金と銀が見えてはっとする。
(なんでこんなところに?)
彼らの部隊はキラとは別のところに赴いているはずだ。移動は容易だろうが、でも、わざわざここまで来るなんて。……何かあったのだろうか。
そう考えて、思わず自分を引いて歩いて行くシンを見つめる。もしかしたら、キラが自室に篭っている隙に、シンが? 真っ直ぐに彼らを目指すシンの背中。
(心配性だな)
本当に、こっちに来てからのシンは彼に似てきている。苦笑して、ふと翡翠の持ち主に思いを馳せた。
(アスラン……)
まだそれほどの日数は経っていないけれど、会いたいな、と思うときはある。
キラの決意に彼は異を唱えはしなかった。ただ驚いた顔をして、……それから迷いを見せた。
ずっとわかっていたのだ。ラクスとカガリが宇宙と地球に分かれたときから、自分たちもどちらかに分かれなくてはならないと漠然と感じていた。ただ、その決心がつかなくて――共にいる時間が心地よすぎて、為すべきことを見て見ぬフリをしていただけ。
「キラ! シン!」
ディアッカがこちらに気付いて片手を上げ、イザークが振り返る。キラの手前でシンがぺこりと頭を下げた。
「派手にやったらしいな」
「うん……」
食事が終わって、テーブルには4人分のコーヒーが置かれていた。キラとイザークの白服は嫌でも注意を引くらしく、あちこちから視線を感じた。イザークやディアッカはもう慣れっこなのだろう。ディアッカに至っては、そんな視線にひらひらと手を振る余裕まであるようだ。
「派手に、というか……ちょっと、人目がありすぎた、かな」
イザークの言葉をそう訂正して、キラはカップに手を掛ける。
実際、大喧嘩だとか乱闘だとか、そういうことではなかったのだ。
「いきなり胸倉掴んで、裏切り者のくせに、とかって……何もなくたってキラのことが気に入らないんですよあいつら!」
「シン、声が大きい」
キラが諌めると、シンが口を噤む。シンの頭をぐりぐりと撫でまわし、ディアッカが大仰に溜息をついた。
「俺たちだって同じだぜ? イザークはともかく、特に俺。出戻りっつーだけで快く思わない奴は多いもんだ」
ディアッカが? 思いもしなかったことを告げられ、キラは顔をしかめた。もともとザフトの彼でさえそうだとしたら……フリーダムのパイロットだと知られてしまっている自分は、確かに攻撃の対象になりやすい。
(……罪だ)
キラが、今まで奪ってきた命。背負って生きていくしかない、その罪。
「頭の固い連中が多すぎるんだ、どこもかしこも! 御託ばかり並べて何の役にも立たんくせに!」
イザークが強く吐き捨てた。
「でも、俺たちはここにいる。そうやって、誰かに蔑まれてもさ」
ディアッカの言葉に、はっと顔を上げる。
「ま、だから気にすんなってこと。キラにはこいつがついてるみたいだし、イザークよりは迫力ねぇけどいい護衛だと思うぜ?」
「それはどういう意味だ!」
「うわっ!」
イザークが吠えた瞬間、シンがディアッカに首を引き寄せられてじたばたともがいた。
かわいがられているようにも見えなくないが、イザークとの楯にされている……ような?
「……ぷっ」
思わず吹き出すと、牙をむいていたイザークが何かを言いかけたその口のまま、じろりとキラを見た。かちりと視線が合う。
「あ、いや」
笑った言い訳を探していると、イザークはそのままキラに拳を突き出してきた。意味もわからずそれを手のひらで受け止める。
「溜まっていることは吐き出せ。俺でもこいつらでもいい。当然あいつでも」
「え?」
あいつ、というのは……もしかしてアスランだろうか。キラが首を傾げると、イザークが拳をぐいっと押してきた。
「お前が連絡しないとうるさいんだあいつが! 連絡しとけ! 今すぐ!」
「は? ええ?」
どんな話でそうなる? 今の話題から何がどうなって。
キラが目を瞬かせていると、ディアッカがあっはっはと笑い出した。
「俺たちが今日ここに来た理由はそれ。もーホントうるさくてさあ。ってことで、心配性の誰かさんによろしく」
「……はぁ」
話が上手く呑み込めず気の抜けた返事をする。何だか良くわからないが、アスランに連絡を取ればいいらしい。
(そういえば)
プラントに一緒に来て、彼がオーブへと戻って――それから一度も連絡を取っていなかった。
姿を見ても触れられないのは寂しいからと、妙な理由で遠ざけていたけれど。
「うん。今すぐは無理だけど……今夜、してみる」
キラが微笑ってそう言うと、何故か3人ともほっとしたような表情になった。
* *
「――プラントに、行こうと思う」
キラがそう告げたとき、彼は静かに振り向き眉を寄せた。
「キミがいた、ザフトという組織のことが知りたいんだ。今までみたいに一方のことだけしか知らないんじゃなくて、両方のことを見て、知って、……もっと強くなりたい」
「……キラ」
「プラントに打診はしていないけど、でも」
「キラ」
言葉を続けようとしたキラに腕が伸ばされ、ぎゅっと抱きしめられる。腕の強さが、彼の痛みを……想いを、表しているようだった。
ラクスが宇宙に上がり、カガリが本格的にオーブ代表として動き始めた。それを補佐する立場にある自分たちも、今後のことを考えなくてはならなかった。
アスランと、シンと。ただ穏やかな生活を続けているだけではいけないと、ずっと思っていたことだ。
ただ抱きしめているだけで、アスランは何も言わなかった。
先日のプラント訪問で彼が何を得てきたのか、キラは詳しく知らない。だがおそらく、復隊を求められているのだろうと思っていた。それはシンに関しても同じだ。
けれど、アスランがそれを渋っているのも知っていた。その理由が何かまでは、キラにはわからなかったけれど。
だから、という訳ではないけれど、キラはプラントに上がろうと思った。自由という名の翼をもがれるのが嫌で、自分はずっと同じ位置からしか物事を見ていなかった。後悔している訳ではないが、もっと広い視野を持ちたいと思っていた。
「シンが、ついていくって言うな」
いつもより低めのアスランの声。キラの大好きな。
「そうかな?」
「あいつはキラに懐いてる」
小さく笑ったアスランが、肩口から唇を移動させ……そっとキラに口付けた。
「……短かったな」
「うん……でも、長かったような気もする」
戦闘がなくなって、MSに乗らなくなって、共に過ごした時間。
自分たちは再び、違う戦場へ赴かなければならない。いつか、完全なる平和をと願って。
何度も確かめるように唇を合わせ、合間に目を合わせて微笑む。
離れても大丈夫。今は何の迷いもなくそう言える。
まだ、戦いは終わっていないのだ。
……ゆるやかに、世界は動き出していた。
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