カツン、と硬質の音が響いた。
薄暗い執務室。扉の開く微かな音が空気を震わせ、少しだけ光を取り込む。
「……失礼します」
規則正しく響く音が、白いブーツから発される。ドアの先――部屋は無駄に広く、ドアからずいぶん先にデスクがひとつ据えられているだけだ――青白い画面を見つめ続けている人物がいる。
一度止めた足を再び進めると、静かな部屋にまた硬い足音が響いた。
掛けた声にも、この足音も、ドアの開く音も、もちろん人の気配にも気付かないわけがないのに、彼はじっと画面を見つめたまま動かない。
自分以外の誰かなら、彼のこんな態度に腹を立てるだろう。そんなことを考えながら、シンは小さく息をついた。
「予定通り、1300にリヴェルトが港に入るそうです」
「……うん」
今度は小さく答えが返る。
と、同時に小さく彼の前髪が揺れて、手元が端末のキーを叩き出した。カタカタカタ、と規則正しい音が聞こえてくる。この人のキー操作は、シンの知る誰よりも早く、そして正確だ。
「乗客名簿の中に、俺の知っている名前があります」
「キミの?」
「ええ」
事務的な口調に、彼がふと顔を上げた。端末の放つ光に照らされたその顔は、少し青白く見える。
もともとそれほど血色のいい方ではないのだ、この人は。
「シンが知ってるって事は……ザフトの人間?」
面白そうに目の前の上司が薄く笑う。
彼やシンの纏った緋色の軍服は、ザフトのものと酷似していた。彼の、短めに誂えた軍服は機敏な動きを妨げないようできている。見た目はおっとりとやわらかい印象を受けるのに、彼はとても強い。
シンでは太刀打ちできないほどに。
「……いえ」
「違うの?」
シンの言葉に、彼が不思議そうに首を傾げた。
「ザフトじゃなければ、プラント国民?」
口許には笑みを湛えたまま、彼の指先が再びキーの上を滑り始めた。
その動作を見つめながら、シンはすっと目を細める。
シンが言おうとしている名は、おそらく彼の禁忌だ。それを知っているから、本当は言いたくない。言ってしまったら、彼の弱さを目の当たりにしてしまうから。
でも、知らせずにおくのは、危険すぎて。
「…………」
無言のまま、一歩近づく。
纏った軍服の裾が、膝に蹴られて揺れた。
「――……アレックス・ディノ」
「!」
ふっ、……と。
彼の動きが止まる。
「名簿にあった、俺が知ってる名です」
「……IDは?」
「IDはオーブのものでした」
「連れはいない?」
彼の問いに、シンはわからない、と答えた。
知っている名はそれだけだった。他にも偽名を使っている人物がいればわからないが、今のところシンが引っかかったのは一人だけだ。
「……シン」
「はい」
「彼だと思う?」
「…………」
立ったままのシンの肩に、重みがかかる。
ああ、ほら、と。シンは唇を噛み締めた。
「他にあんな名前使う人、いないと思いますけど」
わざと突き放すように告げれば、肩口からそうだねと呟く声が聞こえた。
何気なく、後ろを振り返る。
部屋の扉はしっかりと閉まっている。上司の部屋にノックや挨拶なしで入ってくる輩もいないだろう。
しばし逡巡した後、シンはひとつ息をついた。
「――キラ」
普段は決して呼ばない彼のファーストネーム。
戦後、有名になりすぎてしまったキラ・ヤマトの名を捨て、彼はキラ・ヒビキとしてこの巨大な宇宙ステーションの指導者になった。
「なに?」
「本当にあいつだったらどうするんだよ」
先程までの口調は、指導者であるキラ・ヒビキに対するものだった。だがこれは、キラ・ヤマト――シンが初めて会った時の、柔らかな笑顔を向けていたあのキラに対するものだ。
「どうするって……、……うん、どうしよう」
「なんだよそれ」
シンの呆れたような台詞に、キラが少し微笑う。
「オーブを出た時に、彼にはもう会わないって決めたんだ。だから、会わずにいられたらいいなとは思うけど」
「無理だろ」
「即答しないでよ。容赦ないなあ」
「あんたが招いた種だろ。外部から人を入れるの、俺は反対したからな」
「そうだけどさ」
肩の重みが更に強くなって、シンは思わずキラの背に手を添えた。このまま倒れてしまうんじゃないか。そんな風に思ってしまったからだ。
「……なんで……来ちゃうのかな……」
シンの腕に甘えるように、キラが額を肩から胸にうつす。
「探しに来たんだろ。あの人は、キラをそんな簡単に諦める人じゃない」
アレックス・ディノと名乗る人が、シンの知っている彼ならば。
「そうかな……そうかもしれないね……」
キラは残酷だ。
こうしてシンに甘え、身を委ね、何もかも甘受してくれるというのに……シンの想いを知っていながら、心はまだあの人――アスラン・ザラのもとにある。
だからシンも、キラにすべてを晒さない。求めない。
今は、キラと対等に接することができるのは自分だけだ。その優越感だけでいい。
「でも僕は、彼を傷つけるから」
今はもう、アスランはキラに触れることすら叶わない。
持ち上げた指先で、やわらかい栗色の髪を撫でた。こうして、ただ髪を撫でる事ができるのも。今は、自分だけだ。
「……僕は、ずるいかな」
「最悪に」
すぱっと返ったシンの言葉に、本当に容赦ないなぁ、とキラの苦笑する声が返る。
「キミのそういうところ、好きだよ」
本当に、ずるいと思う。
さり気ない言葉で、こうしてシンを繋ぎとめて。
「シン……もう少しだけ、こうしてていい?」
「好きにしろよ」
その腕で、シンを抱きしめて離さない。
心はずっと彼のもとにあるのに、目の前のキラはシンを求めている。
彼はこれから、今まで関わってきたすべて人たちを裏切る行為をしようとしている。彼らの受け止め方次第では、世界は再び戦争の中に墜ちていくだろう。
そうなったとき、彼の手足となって戦えるのは、自分だけだ。
「……戦うことになるのかな」
アスランとも。
言葉にはしなかったが、そういう意味だろうとはわかった。
溜息をつくことで返答に変えると、キラは静かに腕を離し、身を引いた。
紫色の瞳がシンを捉え、その指先がシンの前髪を梳いていく。慈しむような優しい視線に、シンは眉を寄せた。
盲目的な想いではない。けれど、キラをひとりにすることはきっとできないだろうと思う。
たとえアスランと戦うことになっても。
今まで関わってきた、すべての人たちを敵に回したとしても。
「――すべて、終わらせる」
キラの決意に、シンは微かな悲しみと共に頷いた。
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